第6回Meister26「地域案内めぐり」兼「忘年会」

平成27年12月4日(木)担当リーダー 仲田 元昭

集合場所:東武新船橋駅改札10時集合

散策のポイント

①新しい船橋の街作りが進む山手地区工場跡地群の「産業の歴史」を振り返る。

②葛飾の「歴史と自然」を感じる。

③葛飾の「文化財の魅力」を知る。

④山野浅間神社の「市内随一約200mの参道」と市指定保存樹木に覆われた趣のある景観を楽しむ。

⑤開発が進む船橋の中心部に今に残る農村の雰囲気を感じる。

 

 

 

 

新しい船橋の街作りと産業の歴史

10時に新船橋駅に全員集合。出来て間もない新しい大規模住宅地区を見学。イオンの店内を抜けると役目を終えて次の開発を待つ工場地帯を見て、旭硝子と日本建鉄の歴史について仲田さんの詳しい説明を受ける。


飛びの台遺跡に立ち寄る。博物館は以前来たのでスキップ。

メモしていなかったので、以下説明は省略します。

 


(1) 山野山正延寺の木造五智如来坐像

  千葉県指定有形文化財(彫刻)木造五智如来坐像 平成5年2月26日指定

  

  密教では大日如来は最高至上の絶対的存在とされ本尊としている。五智如来は、大日如来を中心とした五仏で構成され、大日の慈悲を説く胎蔵界、知恵を説く金剛界の両界ががあり、大日如来とほかの四仏の姿、構成がそれぞれ異なっている。正延寺の五仏は、胎蔵界五智如来で、大日如来を中尊とし、東方に宝□如来、南方に開敷華王如来、西方に無量寿如来、北方に天鼓雷音如来の四仏を配する。構造や技術・作風から、元々一具の胎蔵界五仏として作られたと考えられる。

 

カヤ材の一木作りで、10世紀末頃から11世紀(平安時代)の作と見られ、市内最古の仏像である。胎蔵界の五智如来像の類例は少なく、特に平安時代の作で現存するものは全国的にも珍しい。

 

「引用 千葉県教育委員会、船橋市教育委員会説明掲示板


(2)葛飾神社のクロマツの解説

 クロマツの樹高は13m、幹周り3.42m、葉張り16.5mで市内で最も太いクロマツである。(平成23年3月計測値)葛飾神社は元の勝間田の池(現在の勝間田公園)の西高台にあり、この池は万葉集などに詠まれた大和の国西の京などにして、下総の歌名所の一つとして数えられるようになった。このようなことから、葛飾神社のクロマツは江戸時代より人々に親しまれてきたことがうかがえ、また地元では樹齢400年と言われている。

 

(3)宝成寺、成瀬氏の墓付けたり墓誌 船橋市指定史跡 昭和45年(1970)

   5月20日指定

 

現在の船橋市西部、旧葛飾町一帯はかって栗原郷と言われ、江戸時代初期に大名成瀬氏の領地で会った。この宝成寺にある成瀬氏にある成瀬氏の墓地は、船橋市唯一の大名関係の墓である。

 

成瀬正成は徳川家康側近の一人で天正18年(1590)に家康が関東に移封されるとすぐに栗原郷四千石を与えられ、その後関ヶ原の合戦などの武功で石高を加増され、大名に列した。やがて家康の九男義直が尾張徳川家を創設すると付家老として後見役に任ぜられ、元和3年(1617)に尾張犬山城主となった。正成の死後、犬山城主は長男正虎が継いだが、正成は生前次男之成に栗原郷4千石を譲っていたので、之成が栗原藩の2代目となった。その後、之成は39歳で没し一歳の之虎が跡を継いだが、その之虎がその之虎も寛永15年(1638)に5歳で夭折したため、栗原藩成瀬家は断絶した。

 

一方犬山の成瀬家は存続し、明治時代には子爵になり、子孫が犬山城を所有した。宝成寺は江戸における成瀬家の菩提寺とされ、一族の墓の一部が営まれ明治9年(1876)までの墓碑が残されている。墓地内には、之成とその殉死者3名の墓碑があり、殉死者を副葬した大名の墓は非常に珍しいものである。また、駒型の墓は、第7代犬山城主正寿(まさなが)のもので、台石を除いた高さ3.6m、幅90cm、厚さ40cmあまりで県内最大級の墓石である。

 

昭和44年(1969)正寿の遺骨を国許の臨済宗妙心寺派白林寺(調査追記:寛永2年(1625)夏、尾張藩主徳川義直が、付家老成瀬正成のために建立した寺院、愛知県名古屋市中区栄3−25−18)に移すため墓石の下を発掘した際、正寿の墓碑が出土し、その後の整理を行った際には、正寿の兄成瀬信濃守正賢の子である成瀬鍋吉の墓碑が出土した。この二つの墓碑の存在は非常に稀であり貴重なものである。「引用 船橋市教育委員会の説明掲示板」

 

 

 

(4)船橋市第1号天然記念物 妙見神社のクロマツ

 船橋市の天然記念物第1号であった「樹齢500年の御神木・妙見の松の年輪サンプルの現物」に記載されていた内容は次の通りであった。

「この大木は、境内台端に聳え立つ雄姿は実に美しく市内随一の名松であった。樹高約35m、幹周り目と通し4m余、樹齢500年余を経ると推定される。

 

昭和47年(1972)11月11日天然記念物第1号として船橋市文化財に指定された。同51年秋以降老化甚だしく、勢いが急に衰老し、妙見神社奉賛会はじめ関係当局の熱意ある保存対策の功無く、同52年3月にいたりついに終焉した。同月奉賛会協議の結果、伐採することに決定、同年4月1日付をもって市の指定を解除になる。伐採は、6月12日より16日迄4日間に亘り無事行われた。慈に幹元の一部を遺して社殿に奉納し跡地に記念碑を建立し、寺内部落の誇りであった名樹の栄誉を永く後世に伝え(以下不明)


            昭和52年7月吉日妙見神社奉賛会 氏子 三橋 清 謹書


5)葛羅の井 船橋市指定(記念物・史跡)昭和40年(1965)3月17日指定

 旧栗原本郷の葛羅之井は、葛飾明神の御手洗と言われ、明神の旧社地東下の古作道の路傍にあった。現在はコンクリートで固められた直径180cmほどの丸い井戸(終戦後は四角い井戸)で、昔は竜宮界まで続いていたと言われた。

                    「引用 船橋市教育委員会の説明掲示板」